将来世代への意識を持つことがますます難しくなっているように思う
ひとつには,少子化,あるいは,子育ての非日常性が拡大しているからなのではないかと思う
少子化はよく言われるような人口減少(=労働力や消費者などの経済規模の縮小)をもたらすことだけが問題の本質ではないのだろう
自分たちが亡くなったあとの世界への想像力の縮小をもたらすことが本質ではないだろうか
言い換えれば,空間的なグローバリゼーション(拡張)は進んだが,時間的には世界はどんどん短縮されていってしまっている
時間的な意識が拡がるか否かの違いは,自分の子どもの有無にかかわらず,子育てに関わる機会がどの程度あるかで生じるのかもしれない(もちろんそれだけではないにしても)
他方で,子どもたちと関わる機会があってもなお,十分な意識を持つことは難しい
人間,目の前に何かが差し迫っても,普段と違う行動はなかなかとれないものである かくいう自身もそうである
それまでの慣性に従いながらほんの少しの幸福を求める現実路線と,ユートピアへの期待の反面,今の小さな幸せすら崩れるのではないかという恐れ,そして,それらの間の厭世観を行き来しながら,多くの人がどうしたものかと身動きがとれないでいるのだろう